こんなところに!




今は常識?!・・・だったとしても・・・神戸のような観光都市は遠くから来られる観光客に路上喫煙の禁止について告知しないとね!そうそう、今日は朝から三ノ宮へ行っておりました。

はい?私は生まれてからタバコ吸ったことありませぬ(≧∇≦)

姫路への帰着後は久しぶりに「駅そば」へ((まねき食品株式会社))

おやつの様に食べることがある駅そば・・・終戦後は、何もない混乱期に統制品((終戦直後は農業生産力が低下し悪天候が重なった。1945年(昭和20年)には日比谷公園で餓死対策国民大会が開かれ食糧供給状況は深刻を極めた。
1946年(昭和21年)幣原内閣において、臨時の食糧緊急措置令(緊急勅令)が制定され、強権的に供出と米価値上げが行われたが、大多数の農民や組合の反感を買い効果はほとんど無かった。
その後、物価統制令が公布施行されたが、価格設定がインフレに合わせ高すぎ、都市部住民の生活は窮乏を極め、復活メーデー後、5月19日(TAROの誕生日、あ、年代は違うけど…(*^_^*))に、皇居前広場で飯米獲得人民大会が開かれ、労働組合員や無産党員を中心に約25万人が抗議を行った(食糧メーデー)。
1947年(昭和22年)、初の食糧管理法改正により、馬鈴薯・甘藷・雑穀が加えられた。
食糧営団は後に設立された食糧配給公団へとなり、復興金融金庫より運営資金を借り入れ引き続き配給を行った。
ガリオア資金の計上により輸入食糧の補給が始まり、1948年(昭和23年)食糧確保臨時措置法が公布施行された。
農林大臣は都道府県知事の意見に基づき農業計画で義務となる売渡数量を定め、知事は市町村別の農業計画を定め、市町村長が生産者別の農業計画を定め、議決機関として政府に中央農業調整審議会、都道府県・市町村に農業調整委員会が設置された。))であった小麦粉の替わりにこんにゃく粉とそば粉をまぜたそば販売からはじまり、試行錯誤が続いたとか・・・

昭和24年に「えきそば」と命名され

戦後、簡易な設備で簡単に提供できる麺類販売として、最初は夜行列車で出雲から仕入れた豪華な今市のうどん鉢だったとか!ちなみに当時から立ち食いだったそうです。

その後、うどんからかんすいを入れた黄色いラーメンになり、当時、うどんが一杯30円だった頃、蓋つきの瀬戸物容器付きで50円!その写真は駅そばの食べるところに貼らててます・・・欲しいです。容器は10円で引き取られたとのこと。

今では駅以外でも食べられれば、家でも食べられますが、やはり駅構内で食べるのが美味しいですね!

  




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